*texts

    *2015/10/27(Tue)

    【芹沢文学を巡って】
      
    芹沢光治良(せりざわこうじろう)という作家をご存知だろうか?
      
    恐らく、知らないという人が大半であると思う。なぜなら、学校の教科書では紹介されないし、長らく著作が絶版であったため、読書好きの人であっても、書店などでこの作家の名を目にする機会はまずなかったであろうから。
      
    私が彼の存在を知ったのは今から5、6年ほど前、ネットで過去の日本人のノーベル文学賞選考対象者を調べていたときに、情報が検索にひっかかったからである。
      
    ・仏訳された著作「巴里に死す」がフランスで10万部を超える大ヒット
    ・日本人初のノーベル文学賞の候補と話題に(※これは実際には誤りであった)
    ・日本ペンクラブの会長を川端康成の後を継いで務めた
      
    などなど、錚々たる経歴。なぜ今までその名を知ることがなかったのか、不思議であった。当時、絶版の諸作品を入手する術はなく、Amazonの中古は値段が高騰。いつか読みたい、と長いこと頭の片隅にあった。そのため、2012年の暮れ、没後20年を記念して復刊した「巴里に死す」を書店で発見したときは飛び上がるほどに喜んだ。付録に大江健三郎と遠藤周作の推薦文も収録されていた。
      
    平易で「入り易い」文章に意表をつかれる。ジェイン・オースティン、ドストエフスキー、太宰治、ガルシア=マルケス。内容の善し悪しに関わらず、冒頭の数行という「一瞬」の間に読者を作品世界へ引き込ませるような、まるで「魔力」とでも呼びたくなるようなものを使いこなしている、そんな印象を与える作家がいる。私には彼もそちら側の作家だろうと思われた。いわゆる日本文学と呼ばれるものに特有のわざとらしさ、臭さが微塵もなく、むしろ西洋的な洒脱さで、無駄のない洗練された文体に好感を抱いた。(この文体の下地の秘密は後ほど明らかになる。)
      
    内容も素晴らしかった。無宗教、無信仰が当たり前の現代の日本人には馴染みにくい「神への信仰」「魂」というような概念が、抵抗を感じさせることなく、自然に作品に溶け込んでいて、キリスト教圏ではない日本の作家のこのような作風は新鮮であった。私自身も特定の信仰を持ってはいなく、そのこと自体の良い悪いは今はいったん置いておくが、合理性や論理性の方がそういった神秘的な概念よりも説得力を持ってしまう現代の感覚で読み進めても、作品を通じて容易に、鮮やかに、信仰を持った人の感覚や想いを追体験させてくれる筆力に興奮した。何と言っても、この作品には文学の中で最も重要な要素である「悪」が登場しない。例えば、「悪」を登場させることで「身体」を越えた「魂」の愛を描いたエミリー・ブロンテ。「巴里に死す」は「悪」を登場させることなしに「魂」を描いた。改めて問いたい、なぜ、今も尚、芹沢光治良の名を知る機会が閉ざされているのか。
      
    翌年の初夏、長いこと行く機会を逃していた祖父の墓参りに行ける目処が立った。静岡は三島。東海道線の鈍行列車に乗って、叔母家族のいる沼津を経由して向かえば、さぞ気持ちの良い旅になるだろう。旅程をネットで確認していると、その沼津に芹沢光治良記念館があることを知って驚いた。記念館への訪問は迷うことなく旅程に組み込まれた。
      
    沼津駅で降りると、いつものようにこちらの事前の心構えを僅かばかり覆す、あの軽くて程良い湿気の空気が迎えてくれ、バスに乗ってさらに海岸に近い牛臥(うしぶせ)、我入道(がにゅうどう)へ入って行くと、その空気感はさらに深みを増した。そこは、いかにも療養に適した、というような、自然に恵まれた開放的な空気の土地で、(実際、現地に向かうまでにいくつかの施設やリハビリ病院を目にした、)住宅街と言えど、都会とは違う開けた視界と、その視界の先に見える山、僅か先に控えた海の存在感は、逗子や鎌倉を彷彿とさせつつも、何か独特なものを感じさせる。
      
    記念館は、海岸もその占有領域に含み、松林に囲まれた公園の一角に、コンクリート造りの塔の姿で登場した。二階に到達するほどに背の高く大きな入り口の扉に圧倒される。書店では目にすることの出来ない貴重な著作、資料が、館内をめぐらせるように余裕を持って並べられていた。屋上からは松林が邪魔で海が見えなく残念であったが、初夏の海岸から運ばれる空気と波の音が心地良かった。百年ほど前に芹沢少年もこの同じ空気を吸っていたのか、などと凡庸なことを感じていたら、この土地を流れる独特の空気の速度と「巴里に死す」に流れる文章の速度が一致したように思えて、作曲家自身の手書きの楽譜を見るときに恐らく感じるであろう、印字からは判別出来ないものを見出すことが出来たときの気分に浸っていた。
      
    記念館訪問から2年が経った。つい先日、ひょんなことから芹沢文学愛好会の定例読書会に招待してもらう機会を得た。最近知り合った友人がこの会の幹事で、もし興味があれば、とのことであった。芹沢作品の中から一作、課題図書を決めて事前に読んでおき、参加者が一人ずつ感想、気づきを述べていく、という形式のもの。今年で創立38年を向かえる歴史ある会合で、晩年の芹沢先生ご自身も参加されたことがあるという。芹沢作品を「巴里に死す」の一作のみしか読んでいない若輩者が参加させてもらうのはなんとも心許ない気持ちが一瞬よぎったが、貴重な機会への期待がそれを上回り、参加希望の旨を即答した。
      
    私が参加した回の課題図書は「運命」という短編小説であった。昭和14年にとある文芸誌へ寄稿されたもので、後に芹沢文学を代表する作品となる長編大河小説「人間の運命」の原型となるテクストとのことであった。芹沢先生が少年時代を過ごした日露戦争時の漁村の部落での生活の様子が活き活きと描かれていた。2年前に訪問した牛臥、我入道の景色がまた目の前に現れたようであった。
      
    東中野の区民館の階段を降りて行き、会場となる地下の一室へ入ると既に20名程の参加者が、会議の形に並べられたテーブル席にそれぞれついていた。ご年配の方が多く、恐らく私は最年少、30代も私と友人のみだろうか。改めて、若い読者に芹沢文学が知られる機会が少ない現実を思い知らされる。会の進行は、前もって友人が教えてくれていた通り、参加者が順番に一人ずつ感想を述べて行くだけの簡潔なものであった。自分がさらっと読み流していた記述に言及され、思いもよらないような見方を提示してくださった方や、現地で生活していないとわからないような植物の話をされた方がいて、興味深く聞かせていただいた。また、私を誘ってくれた友人は、信仰の違いを「積極さの度合い」という言葉を使って表現し、感心させられた。
      
    反面、自分の希望する政治的思想と作品の内容を無理やり結びつけ、勝手な独自解釈を織り交ぜた持論を述べたり、「信仰はよくない、危険だ」などと、いかにも現代的な宗教アレルギーの感覚で、作品の中の神秘的な側面をばっさりと否定する方もいて、思慮浅い読みにがっかりしたことも正直に書いておきたい。中でも「この作品には戦争反対のメッセージが込められている」と発言した女性にはさすがに閉口。これはあまりに酷かったので、自分の発言の際に「そのような解釈はナンセンスである」と真っ向から否定させていただいた。まあ、GHQによる洗脳教育をたっぷりと受けて育ってしまった戦後民主主義の世代、その子世代の方々なので、仕方ないと言えば仕方ないのであるが。この点、大学や研究会などでよく取り上げられる「輪読」という形式はどうなのだろうか。この会でそれを早速取り入れるのは色々と難しそうではあるが。
      
    私が芹沢光治良の文章に魅せられたのは、矛盾も含めて当時の様子を客観的に淡々と綴っている所であって、思想云々ではない。この作品について言えば、戦地から届いた手紙に奇跡だ、神さまのおかげだと純粋に喜ぶ子供や、榊へ黙々と祈りを捧げる村人の描写。そういう時代であり、その当時のその土地の人々、様子をありのままに描いているだけである。他のあらゆる作品に接するときにも言えることだが、独自解釈を入れずにありのままを感じ取るように読まなければ、その作品の呼吸を捉えることは出来ず、本来そこへ流れているはずの瑞々しい色彩は濁ったまま伝播していってしまう。
      
    内容や解釈を巡って色々と感じるところはあったが、この会に参加させていただいた何よりの恩恵は、自分よりも遥かに長く深く芹沢文学に接してこられた諸先輩の方々のお話を聞けるところにあった。ネットから得られないことはもちろん、既刊本からであっても膨大な時間を費やさなければ得られないような貴重な情報を談話を通して得られる。この日の懇親会は非常に有意義な時間であった。そこで芹沢先生の文学的な師匠にあたるのがバルザックである事を教えていただいた。これは衝撃であった。と同時に、心地良い不意打ちをくらったような爽快感から来る、妙な納得感もあった。
      
    バルザックと言えば、彼の発明した登場人物再登場の手法や、膨大な著作量ばかりが取り上げられがちであるが、そういった大枠の部分よりも着目してほしい部分がたくさんある。バルザックの代表作を一作でも読んだ事があれば、彼が「天才」であるという事は嫌というほど感じるだろう。その「天才」性は、芸術家を持ち上げようとする人が、適当な称賛の言葉を見繕う技量と表現力がないため、取りあえずのひと言として使う「天才」ではなく、本来の意味(それ以外にはどうしても的確にその才能を評価できる言葉が見つからないという意味)での「天才」である。
      
    具体的に、私がバルザックの作品で着目してほしいのは「文章の上手さ(文学者を評価する言葉としては何の捻りもないが、しかしここを天才と評されるのは文学者としては最上級の評価ではないだろうか?)」であり、その一つは、描写において、関係詞による後ろへの説明追加を多用する事によって、次々に情景が広がっていくように見せる独特の文体であるが、特にその筆力が発揮されるのが台詞においてである。中でも、十九世紀初頭のパリ社交界の貴婦人たちの優雅で洗練された台詞は、現代の我々には馴染みのない世界の会話であるにも関わらず、実質的に物語を推進しているのはこれではないか、と思わせる程に不思議な説得力があり、気づけば当たり前のようにその流れに乗せられてしまっている。
      
    芹沢光治良がバルザックから影響を受けていると聞いたとき、妙に納得してしまったのは、この「台詞の洗練さ」に共通点が見出せたように思えたからである。いったいどういった文学上の方程式を操れば、このような推進力、説得力を醸し出せるのか。ここが解明できない限り、我々は永遠に才能のない評論家よろしくバルザックを「天才」という言葉で評し続けなければならないだろう。
      
    ここで、ある事を思いついた。バルザックの影響を受けた芹沢作品は、バルザックの洗練性の謎を解く鍵にならないだろうか?バルザックのエッセンスを吸収出来ているからこそ、共通の洗練性を感じさせる文章を作りだせていると考えるのが自然だ。また、最初にも書いた通り「巴里に死す」は仏訳され、フランスでベストセラーになっている。この仏訳が手に入れば何かわかるかもしれない。
      
    実は、過去にフランス語の勉強のため、この仏訳を探し回った事があるが絶版で、Amazonフランスでも見つけることが出来なかった。そこでこの日、ダメもとで愛好会の代表者の方にお願いしてみたところ、快諾してくださり、後日、何と一枚一枚コピーされた形で製本された貴重な翻訳の資料が自宅に郵送で届いた。
      
    続く